Q:ゆるすと、なぜこころが和むのですか?

MARTH:なぜ、ゆるすと心がなごむというのか…。それは、“ゆるす”ということは、すべてがひとつであるということにほかならないからです。自分と他という分離感があって、自と他といった分離感のなかで敵味方といったような関係のなかでゆるす、ということではないのです。万物、森羅万象、すべてが一体物で、すべてがひとつのものだと気づいたから自然とゆるすのです…。
ゆるしたくないのに、それを逆に、グギッとゆるすことで、一見強引のようですが、そこにワンネスが引き出され現れてきてしまうのです…。そのひとつである安心感的、精神的状況こそ、本当は自然の在り方なのです…。だから、当然自然と楽になってしまうでしょう…。
逆の言い方をすれば、本来科学的にも当然であるところのワンネスの感覚を出してくるために、愛や万物、森羅万象、神、なんと呼んでもよいのですが、自然界の仕組みであるすべてとの一体感を引き出してくるためにゆるすのです。その時こそ、本来自然の万物の子に戻っているからです。
ですから当然、ゆるすことは愛につながります。神聖さにもつながるでしょう…。なぜなら、本来森羅万象のすべてが、一体であるから、ひとつであるからに他ならないのです…。それゆえにこの世界のあらゆるものが神の現れ、神の子、真我そのものとも言えるでしょう。悟りとは、私たち人類の中でそう気づいている人々とそうでない人々がいるだけなのです…。
通常は、人類は何万年にもわたり、自我世界、分離社会・分離文明を形成してきました。本当は一体のひとつなる世界の中で、その真実を知らされないままで生きてきました。森羅万象のすべてがひとつである、一人である、一元である、という事実の中で、すべてが素粒子の海でつながっていて、あらゆるものが原子という本当は、未知なるもので出来ている、ひとつなるものであるのに、バラバラであると分離を信じ、文明や社会が作られてきました。本来、便利で必要である言葉(名称付け)や五感がその分離感を強めるもととなってしまいました。その過剰な分離感のために、人は愛を失い、神を失い、神聖さを失いました。それによって孤立し、そこから苦しみは生まれ、不安は生まれ、恐れは生まれます。自我が存在しない時、一体の時、自我の死も、自我の失敗も、自我がダメとかいいとか、自我が良くなるとかそういったものが自然と消えてしまいます。誰もが万物全体の中の大切な部分になるのです。
万物全体の中の大切な部分は、安心して暮らすことでしょう…。すべてと一体でつながっていて、それゆえに恐れもなく、不安もなく、劣等も優越もなく、それゆえに野心もなく生きることでしょう…。当然、戦いや戦争も終焉してしまうことでしょう…。
そして、自我の野心がないというのはどういうことでしょうか。
野心がない、自我がないということは、“自我が何かになる”ということが出来ないということです。ですから、心理的時間は止まります…。のっとられた忙しさや逆に恐れによる隷属やいいなりや引きこもり、黙りも消え、心理的な時間が止まる…。自我の念望や期待や希望が無くなるということです。逆にいえば、万物全体の喜びや、万物全体の夢や希望、念望は生まれることでしょう…。しかし、自我の恐れから来る念望、希望は消えるのです。それによって心理的時間は発生しません。そして今この瞬間に安らいでいることができ、愛しんだり、楽しんだりすることができることでしょう…。それゆえに、真に活動的創造者(クリエイション)となるでしょう。
ですから、ひとつである、一体である、分離のない社会、分離のない文明、分離感のない世界は愛に満ちているということに他なりません。神々しい、すべてが神の一部、愛の現れ、神聖さの現れ、あらゆる生物、あらゆる人々、あらゆる物質、すべてが愛の海、素粒子の海、神々の海の中にあり、それそのものであるという気づきが、新たな人類が創り出す世界であることでしょう…。そこには真の平和があることでしょう…。
新たな人類、千年王国が、もし本当に人類が創れるのなら、そのとき、自我という分離感は終焉していることでしょう。分離社会が終わり、すべてが一体だということへの気づきのもと、素粒子の海、またエーテルの海、愛の海、神々の海の中で、あらゆるものがひとつであり、すべてがその一部を担って機能することでしょう…。そして、あらゆるものが未知で神秘の中に永遠にあることも科学は突き止めることでしょう…。そのときには自我からみた死というものもありません。自我は存在しません。この世界はただの未知なる変化となることでしょう。変化する神秘的世界となり、人々は至福の中で、幸せの中で生きることでしょう。
何故なら、強い自我の分離感こそが苦しみのもとであり、宇宙的事実でないゆえに妄想である過剰な自我が恐れなのです。逆の言い方をすれば、分離こそが恐れであり、分離感こそが苦しみであり、分離感こそ不安であり、不安からくる、分離感が何になろうとする忙しさであり、心理的時間のもとであるのです…。それこそが、野心や念望のもとであり、ブレイクダウンの源であるのです…。ゆえに運の悪さでもあるでしょう。分離した感覚が強くなるとあらゆるトラブルがメッセージとして起きてきます。そこからあらゆる自我ゆえの苦しみも生まれるでしょう…。あらゆる恐れが生み出されてくるのも、それが必要なものだからです。「一体なのに、一体じゃないと思っているよ、自我になっちゃっているよ、目覚めろ、妄想だよ、ひとつだよ、目覚めろ」、と自らの本体が自らに教えるからです。この世界に善人・悪人がいるのではなく、すべてが神と呼ぶ未知なるものの現れであり、万物の子ひとつなるものそのものであると気づいた人々と、分離を信じ、戦っている人々がいるだけなのです…。それゆえに、そのメッセージは、止めようがありません。きっと自らにしか止めることはできません。なぜならば、自分がぶれた時、メッセージを送るのは本当の自らです。その証拠に、痛い時に「痛いぞ」と思うのは誰でしょう?自らです…。痛いと思うのは自らです。苦しいと思うのも自らなのです。ですから、自らが苦しい、つらい、恐い、と思うのは、ひとつ、一体の世界から妄想で分離してると思ってるよ、というメッセージでもあるのです…。痛い時の、メッセージは病気ですよ、ですね?苦しいとかつらいとか不安とか、そういった想いは、「分離しているよ、強く自我化しているよ、一体なのに、ひとつなのに、つながっているのに、そう思っていないで、本来は自らの、他と見えるものと戦っているよ…」、そういった意味に他なりません。
ですから、他と見えるもの、本当は自らであるのだろうけど他者と見えている、一体物であるあらゆるものをゆるすのは、そこへ帰る大事なアイテムです。それこそ、自我を終焉する大事なアイテムのひとつなのです。ゆるす時にやすらぎが広がるのは、分離と反対なことだからです。人類が素早く出来る、分離と逆さまな行為だからです。真にゆるす時、自我は消滅します。ゆるす時、恐れも消滅してしまいます。不安も、つらさもです。“ゆるす”というのは、一体である、すべてがひとつである、ということに他ならないからです。本当にゆるすことができる時は、幸せ感や、やすらぎは、一体である時だけなのです。自我が消え去った時だけなのです。逆に言えば、自我を消えさせる、分離感を終わらせるためには、“ゆるす”という手法はとても大切になることでしょう…。
そこには、美しき真実の愛と平和と神聖さのある、分離感のない世界が見えてくることでしょう…。

MARTH