Q:この世界はなぜこれほど醜くなっているのでしょう。
MARTHさんはどう思われていますか。

MARTH:この世界が病んでいるのではなくて、この世界は完璧に美しいものであるにもかかわらず、人間の社会が長年の分離感によって腐敗してしまっている、ということではないでしょうか。五感という大切な機能によって、しかしそれを信頼しすぎてしまった場合、また、そこから便利であるところの「言葉」という名称付けが生まれた場合、物事は「分かる」「分ける」といったような分離的な価値観になってゆくことでしょう。

動物たちは五感があっても、名称付けからくる考え、要は自我というものが生まれません。ですから、自然界の秩序を保っていられますが、人間は言葉というものを持っています。それゆえ、ある意味便利ではあるがハンデでもあるとも言えるでしょう。これらは慎重に使わなければ分離感を強め、名前をつけ(名称付け)ることで何人、何グループ、何社、という分離感を生みます。オレはちっちゃいんだ、でかい奴をやっつけるんだ、オレは弱いんだ、強いやつをやっつけるんだ、オレは貧乏だ、金持ちをやっつけるんだ、というような分離感はすべて、そのようなところから生まれ、それが何万年にもわたり、人類を覆ってきました。この未知なる世界に生まれてくるすべての美しき万物の子は、そして奇跡の子たちはそのような分離した価値観の人間が作った自我強化社会に生まれてきます。真我の現れ、愛の現れ、神の現れであるあらゆる生命体の生まれてきた世界が自我世界となっているのです。そこは分離・分断を信じた悲しみの世界です…。そこで美しかった子供たちが大人になるにつれ、恐れが生まれることは当然でもあるでしょう…。そして、その社会は神と呼ぶのか、天と呼ぶのかわかりませんが、私達の本質であるその真我と呼ぶ、本体が望んだ世界ではないのです。それは人間が自分たちで作り、思い込んだものと言えます。ですから、「神様、なんでこんな目に遭わせるんだ」ということは妄想です。ひどいこととなるのは分離社会の中で起こることで、これを作っているのは人間です。自我の分離感に満ちた世界です。ニューエイジの人々では、傷ついた天使や愛が生まれると捉えているかもしれません。そして、その分離・分断によって腐敗してしまった社会に美しい神の子たちが日々生まれます。あらゆる人々が実際は万物の現れ、真我の一部分なのです。しかしそこの苦しみの中で劣等したり、怖くなったり、“他”という人々のいるところで生まれる…“敵”と言っている人々のところに生まれてしまった場合、その人の人生は戦いとなってしまいます…。またその分離社会のストレスで両親も傷ついてしまっています…。それゆえにあたたかい家庭ではないかもしれません。あたたかい会社でもなく、あたたかい学校でもない、分離感の中ではあたたかい社会は非常に困難です。そのことが人類の最大の苦しみになっているのではないかと私は感じます。

もし私達人類がそのことに深く気づき、ひとつであり、一体である、皆が真我、または神、なんと呼んでもよいですが、愛の現れであって、でも、そうじゃなくなってしまった理由がそこにあるのだ、だから戦っているんだ、オレをバカにするな、オレを愛せ、オレを認めろ、オレをさげすむな、というような戦いの世界、そこから戦争や憎しみ、あらゆるものが生まれているように感じてなりません…。人類はもうそろそろそれに目覚めて、分離・分断という自我世界から脱出することを試みなくてはなりません。私達が分離を強く信じたのは、名称付けや五感から来る、強いそれらに対する信頼感です。しかし、私達の未来、新しい人々は、分離感への盲信や、危険への疑いを持つべきではないでしょうか。慎重に五感や名称付けを使うこと、いつでもどこでも一体である未知や神秘の中に本当はいて、あらゆるものが一体でひとつで、自と他とか、何々国と何々国とか何人と何人とか、そのような分離は、実際は妄想であるのだよと子供たちが気づけ、便利なために名称や五感があるのだけれども、それが盲信されると苦しくなるのだよと習え、一体である愛のある世界を一度で良いから人類は創り、体験する時代にあるのではないかと感じます…。

その時人々は、本当に自らに至福が流入したり、変性意識になっても、真我にそのまままっすぐ帰れる、また死ということを迎えたときでも真我にそのまま帰れる、それが、精神世界の人々がずっと求めてきたことではないでしょうか…。そして、真にそこから愛し、愛され、認め合え、また、人の痛みを理解し、助け合う、または信じ合える、同じ同胞、同じ神の子、同じ自然界の子であることに気づき、そのような教育が世界中の子供達に届くなら、それは大変素晴らしいこととなるでしょう…。それを可能とした時、人類は初めて、真の平和な時代を歩むこととなるのです…。

MARTH
2017.12.30