Q:MARTHさんに質問です。
分離社会やエゴ社会というこの世界は、どのようにして生まれてきたのでしょうか。
また、その弊害は何でしょうか。

MARTH:分離社会は、何度もお伝えしてきたように、五感と過剰な名称付けによるものへの確信から生まれでたものであるといえないでしょうか…。
しかし、特にエゴ社会の問題点というのは、やはり名称付け(思考)にあると思います。
ひとつなるものに色々と名前をつけて分離されたものと感じてしまう、盲信してしまうという形が、この世界の戦争や争いにまでつながっていると感じます。

動物たちは言葉が無いために、五感があってもそこまでさほど大きな問題にはなりません。また、人間社会はその名称付けによってある意味とても便利となって、ある意味で本来の宇宙の形である一体感を失ってしまう人間の本質(真実)とはかけ離れてしまうものかもしれません。しかし、便利であるという部分においては、それが発展してきてしまったのは当然の結果ともいえるでしょう…。今、私達人類は、言葉で出来た思考をフルに使って生活しています…。しかし、自転車に乗る、という行為をひとつとって見ても、そこには知識といったものはあまり関係ないといえるように、あらゆるものが知識なく出来てしまうということがたくさんあります。自転車の知識が山のようにあっても、乗れたことがなければ必ず倒れてしまいます…。同じような例が、今見つけようとしただけで沢山出てくるのではないでしょうか。

ですから、この世界というのは知識ではなくて実際にそれを行動すること、そして体験することによって、成り立っています…。エゴ社会や分離社会の中で沢山の知識をつけた(名称付けの確信の量から来る分離感の多い)人が、同じ手法を使って精神世界、またワンネス、また本質の方向性の知識を沢山得たとしたら、それはとても悲しいこととなるでしょう…。なぜならば、自転車の知識をいっぱい持っているのに、体験したことがない、という状況になってしまうからです…。場合によっては乗れる演技もすることでしょう。

私は人々の心のサポートの現場で、何十万人という人々の心のトレーニングをコーチしてきましたが、精神世界で言うようなワンネスの安らぎや一体感、空(くう)やそれに準ずるものは、鎮圧、セラピーによって、何の知識もなく体験できるものと感じています。たとえば、ありとあらゆる自分の中の痛みや悲しみやつらさ、溜まり溜まったものを吐き出したときのほうが、理屈ではなく知識でそれを知るよりも、人は簡単に空(くう)に戻ってしまいます。その空(一体性)こそ、人の本質であるからこそでしょう…。

それはまるで自転車に何のノウハウもなく乗ってみて、乗れるようになってしまった人と同じです。人間が自らの本質である空や空っぽに戻る、ひとつに戻る、ゆえに万物が流入する、といったことは、内側が空っぽでない限り可能となりません。どんなに知識をつけても、ストレスのエネルギーはより増え、空っぽになりません。長きにわたる分離社会が人類の本質に合わないからです…。それらは本来一体の世界から人間だけがかけ離れた観念で生き、そこからのストレスで、怒り・憎しみ、また寂しさといった、この自我世界でのあらゆる痛み(ズレ)を起こし、そのエネルギーが人間の中に溜まっているからでしょう。逆に言えば、何の知識も、何のノウハウも無いのに、鎮圧や抑圧を全部出してしまった後に、そのうえ価値観が一体性へ逆転してしまえば、万物が流入するといったことは珍しいことではありません。

世界中に癒しの世界、癒し系、ヒーリング系の人々が増えたとしても、重要なのは知識ではなくて、その根源のエネルギーです。ですから、このエゴ社会、分離社会の中で、知識をいっぱい身につけ、その手法を覚えた人は、精神世界に行っても、どうしてもその思考を使ってしまいます。しかし、それは分離を醸し出すアイテムであり、自転車でそれを使うのと同じように、その美しい体験が出来ないまま、そのことを防衛のために話すようになります。そのことは人類の悲しみで、その人に万物が流入することはないのです。ですから、日々の苦しさは元の反対側にいた時とあまり変わらないのです…。

MARTH


Q:ではその、抑圧された、鎮圧されたエネルギーというのは、どのように生まれてくるのでしょうか。

MARTH:それは、人々の本質(一体性)に合わない、この分離社会によっての恐れや苦しみによって、溜まってゆくでしょう…。恐れから黙ったり、耐えたり、そのようなことで溜まってゆきます。ですから、ある程度ノウハウや知識も全く無駄ではなくて、エネルギーが出てしまった後にでは、それをできるだけ蓄積しない、という効果は期待できます。蓄積しない、というものは分離社会においてのストレスを蓄積しない、という意味です。ですから、分離社会的な価値観をもし解消することが本当に出来たら、人類は本質(一体性)に簡単に帰還が可能となり、抑圧や鎮圧を蓄積しないこととなるでしょう。しかし、名称付けが強く、思考が多く、分離感への確信が強い場合、その鎮圧や抑圧がエネルギーとして体に沢山溜まっているのなら、そのときにはいくら知識を増やしても、その人に至福が流入する、万物が流入するという本来自然なことは難しいこととなるでしょう。

そして、そのような場合溜まっているものを出すのにどれぐらいの期間がかかるのか、というようにもしも問われるなら、そういったセラピールームなり、布団をかぶるなり、人に迷惑をかけずに安全な場所で泣き叫び、わめき、怒りや憎しみをマットなどに出してみる、ということを1ヶ月から3ヶ月。それほどまで長くかかる人々もいると、私は現場の経験上感じております。逆に、思考の少ない人はすぐ終わってしまうでしょう…。

そして、まず逆の言い方をすれば、すべて出しきってしまってから、この世界のすべてがひとつであり一体であること、愛とか神の現れであること、神の子とも言っても良いのですが、そのような真実のリアリティに目覚め、また、未知で神秘の中に今いることへの気づきは本来自然な本質に帰る良きサポートであることでしょう。ですから、自分が分離感の観念を終えてゆく、勝ち負けの観念を終えてゆく、ということが両方兼ね備えられて、初めて万物の流入(すべてとひとつとなる)といった体感を持てることでしょう…。それは、精神世界またはニューエイジにとって大切な方向性だと感じます…。

しかし、今は癒しやニューエイジがひとつのブームとなって、名前だけ、知識だけが先行するといった悲しみが多く存在します。そのような時、体験が伴わないといったことが多くなるでしょう。たとえば、音楽でもそうですが、瞑想音楽的な形を取った時に、その音楽が変性意識を生み出すなら、本当にその分離感の抑圧が空(から)となっている人が、それを聴いた時に(変性意識に帰っていったときに)は真我にそのまま帰還できるでしょうが、もし変性意識にそのような自我(ぶんり)社会の価値観やストレスがたまり、自らも分離を信じていたら、やはり残念ながら、肉体を失っても、また瞑想の中でも自我が残ったままの瞑想になってしまうでしょう…。そのような危険性を知った上で、人類が本質に向かってゆくということは、きっと大切なことなのです…。

MARTH
2017.12.31