Q:真の繁栄、持続可能な成功、真の豊かさについてMARTHさんはよく語られています。詳しく、もっと聞きたいのですが。

MARTH:真の成功や繁栄、それは当然持続可能なもののことをおっしゃっておられることでしょう。そうあるには、分離感を超えた本来の質で生きるときにのみ、繁栄は続くと言うことではないでしょうか…。モーゼが、神なのか天なのかはわかりませんが、そのようなものとの対話の中で、すべてがひとつで一体で、本当は分離のない、本当はすべてが自らであるこの世界で、そう見えないにしても、そこで他と見えるものを滅ぼしたり、傷つけたり、騙したり、負かそうとしてはいけないよ、そのようなことをしたら幸せになれないよ、真の繁栄はしないし、継続的な成功は不可能だよ、仮に一時的に分離感を持って世界を支配しても、必ず滅びるよ、と伝えていました。確かにアッティラ大王も、アレキサンダー大王も織田信長も、始皇帝もあらゆる成功者が繁栄短く、長続きしませんでした…。
やはり、人の本質と異なるその分離感の中での戦いや闘争、争いの自己拡大を良しとした社会の中でどんなに左脳を使い、頭を使い、切れ者となっても、その中で、愛を失い、魂を失い、運も失い、必ず滅びる、それが宇宙の法則だよと伝えていたのでしょう…。

それでは、どのようなものが真の繁栄なのか、ということですが、それは、分離感や自我拡大を超えた価値観や意識で自らが生きるときのことではないでしょうか。純粋にひたむきに誠実さを持ってまっすぐに生を生きることのように…。前に自転車の話をしましたが、どんなに知識で自転車の専門家になって、自転車博士になっても、乗ることが出来なければ意味がないように、本来の自転車に乗れる、ということは分離感やその元である思考や知識、名称付けとは別に、それらに依存することなく、逆にそこから自由となったときにこそある、まるで体で覚えるといったような感覚のことではないでしょうか。逆に言えば、分離した価値観や感覚を持って人が生きるときには戦いや闘争や不信や恐れなどの中で苦しみの結果や物事を生み出しやすくなってしまうことでしょう…。しかし、真に美しいものを生み出すときは、人はその分離感を超えて自我は小さくなっているときではないでしょうか…。それは思考を超えていて、ひとつなる感覚に生きている時とも言えるのです…。

ですから、分離感を超えて生きるということは、他の人を滅ぼしたり、他の人をいじめたり、苦しめたりせず、負かしたり、他と見える他国に攻め込むとか、他の人と戦うとか、競争とか喧嘩とか、そういったものをすべて超えて人が生きる時にのみ、真の繁栄が自然と起こってくるのだと感じます…。傷つけられても蔑まれても、決して自らはそのようなことをしないのは、自らの本質(豊かさや繁栄力)を守りたいためであるのでしょう。そういった自我の終息や謙虚さを良しとした、和を持った繁栄の時に初めて、人類の真の成功はあるからなのではないでしょうか…。きっと真の豊かさとは、人を蹴落としたり、人に勝ったりの分離社会に合わせて生きるときにあるのでは無く、逆に言えばそこから去り、万物自然に合わせ、天が望むような、自己の分離が終息された中で起こってくる美しき社会や文明を生み、創るときにあるもので、そのような人生や社会を生むために尽力する時、初めて真の繁栄が誰にでもあるのだよと言われているように感じてなりません…。

MARTH
2017.12.31