Q:MARTHさんは死を超えてゆくというようなことを本でお話しされたり、そのようなメッセージもされています。それは無我無心ということと、分離感を出るということと関係があるのでしょうか。

MARTH:はい、それは当然、関係があります。病・老・死というものは避けられないことです…。自我にとって必ず起こってくることで、消すことは出来ません。しかし、自我の方は妄想なため、消すことが出来ます…。この世界はすべて一体、ひとつのものですが、人間は五感や名称付けである言語によって、分離しているというように捉えています。しかし、真実は一体なるものです。それこそが、無我という分離感の終焉に他なりません。もし、一体であるなら、そしてかつ、この世界は神秘で未知で永遠にわからぬところです…。わからぬということは分けれぬ、ということです…。そうであるとき、部分の死というものは存在しません…。なぜなら、部分は全体だからです。永遠に真我の中、永遠に大我の中、永遠に神性の中、部分の自我というものは夢に過ぎません…。人間が信じ込んだ、観念に過ぎません…。本来自分など観念の中にしか存在しません…。生きてもいない、生まれてもいない、死することもない…。そもそも存在していない…。それが、無我(自我が存在していない)ということに他なりません。そして無心、心は夢である…。一生生きてきた、あらゆる考えは、実際所詮、夢である…。実在ではない、観念に過ぎない。名称付けの結果でしかない…。分離したものなどひとつもないのだから…と、そのようにとらえてみてください。それは、死を超えてゆく、ひとつの大切な法であることでしょう…。
それゆえに、分離社会から人々が目覚める、出てくるということは、死を超えてゆくということにもなるのです…。
自我世界からの離脱、要は自我の終焉は、永遠なる生の旅立ちでもあるのです…。永遠なるものは、自我や分離を超えたところにあります…。そちらが(ひとつであること)この世界の真実(リアリティー)であるからなのです。それゆえに、自我が終焉した時、分離が終焉したときにこそ、真の生がそこにはあるのです…。そのときあらゆるものが輝き、良くなってゆくことでしょう…。人類は、今まだそのことの効能によく気づいていません。ですから、皆そうしないのでしょう…。それは、この世界において大変な損害であると感じてなりません…。

MARTH
2018.1.4