Q:MARTHさんは、分離社会の終焉、自我の終焉、無我無心といったことについてよく語られています。そのところをより知りたいので、お話ください。

MARTH:人間界の分離社会を生み出したのは、自分と他があるというように見る分離感です。それが元となって、分離社会は生まれました…。その元は言葉、および五感への盲信だということはお話しました…。自分と他、要は自分がいる、ということで分離社会が生まれたので、“私がいない”と逆さまに気づいてゆけば、それは消えてゆきます…。
個人であろうが、家族であろうが、会社であろうが、団体であろうが、国であろうが、世界であろうが、私などいないということに気づいてゆくならば、真の自己へ、真我へと戻ってゆきます…。それゆえに、その時、そのグループまたは個人は、万物の法則にしっかり合うために幸せになり、素晴らしいものを引き寄せるようになり、愛と平和の中で暮らすこととなるでしょう…。

そのためにまず、気づかなければならないのは、肉体は自分のものか、ということです…。万物から生まれでてきたものは、自分なのでしょうか…。それは、万物から見て、またそれを神々と呼んでも良いですが、万物自然から見て万物自然の一部が生まれてきます…。そしてそれに人間の作った名称で出来た思考や言語、そして五感の感覚から“自分”という観念が生まれ、自我が生まれてゆきます…。ですから、本来肉体というのは万物のものです。そしてそれは素粒子(私達はそれを素粒子と呼びます。)で出来ています。それよりももっと細かくなると霊的なもの、電気質的なものに変化してゆきます…。霊的なものは一種の電気だと理解してよいのではないでしょうか…。医学も、これからますます電気的なものに変化してゆくことでしょう…。電気というのは生命です。また、電気的なものは霊的なものです。そして、その電気的なもの、それは一体なものです。それは、賢者たちによって、“真我”と呼ばれています。“大我”と呼ばれる場合もあります。神と呼ばれる場合もありますが、この宇宙のすべての元の霊的な一体物です。そこから生まれてきた本当は一体の世界の中、私達が肉体と呼んでいるもの、生命と呼ぶものが生まれてきました…。ですから肉体は、自分の(自我の)ものではありません…。肉体は万物自然のものです。ましてや、霊的なものですので、真我のものといってもよいでしょう…。私達の肉体は真我のものです…。ですから、自我の自由にしてはいけないものです。自我が勝手に使ってはいけないのです。ですから、自殺などはもってのほかです。万物、または真我、神、なんと呼んでもよいですが、その大切なものを自我が破壊してはダメなのです。他と見えるものであろうが、自と見えるものであろうが、大切にしなければなりません。それが、この宇宙の法です。他と自ではありません。すべて一体なのです。そして、すべて、一体なる真我のものです。自らが真我に帰ったときには、自も他も自分のものです。しかし、分離から出るためには、自と他の分裂を終えなくてはなりません。ですから、私などいない、そもそも存在しない、自我は作りごとであるというように気づいてゆかなければなりません。
自我は作りごとであるという気づき…。自我の構成要素は思考です。思考は言葉で出来ています。言葉は名称付けから生まれました。名称付けをよく見てみると、それは人間が作り、そう決めただけ、ということがわかります。ああ呼ぼう、こう呼ぼう、その集合体が思考です。ですから、作りごとです。これは、天が作ったものではなく、人間が作ったものです。名称、言語、思考は人間が作ったものです。それによって作られた“私”という観念が、万物自然の霊的肉体に乗っかっているというのが、正式なかたちです。ですから、“私”というものは妄想に過ぎません。思考というのは妄想です。残念なことに作りごとなのです。その上、分離(分ける・分かる)の源です。そして、人間が作ったものです。神や天が作ったものではないために、便利ですがうまく使わなければ分離社会や自我を生みます。肉体は、神や天が生み出したものといってよいでしょう。その上、天が動かしています…。そこもよくみてゆくと、未知や神秘の中にいて、万物すべては未知や神秘のものであって、霊的なものであるということが見えてきます。電気的なもの、といってもよいでしょう。素粒子の海なわけですから…。ですから、この世界は、この世かどうかもわかりません。人間が名付け、そう決めただけです。現実かどうかもわかりません。霊的なもので最終的には出来ています。電気的と私達が呼んでいるようなもので出来ていて、それが素粒子的になり、それが原子的になり、それが物質的になってゆきます…。ですから、この世界は神秘であり、未知であるわけです…。そして、それによって生まれている肉体は、万物自然のものです。真我のもの、といってもよいし、大我のもの、神々のもの、といってもよいでしょう。そして、私達も、妄想である思考や自我を失ってゆくと真我に帰ってゆきます…。私達のハート、または私達の本体も、また霊的な真我に帰ってゆくものです…。ですから、私達の今いるこの環境は、この世でもなく、現実でもないかもしれません。永遠に未知で神秘なるところです。これを“分かる”というのは所詮思考の話であって、決して分かることではありません。思考では、そこの場所には行けないのです。思考というのは人間が生み出した、分離したものだからです。分離した道具で一体のものを知ることは出来ません。分離が消えた時、我などいない時にのみ、それは体験することが可能になるのです。思考というのは名称付けの束であるので、現実ではありません。思考というのは作りごとでしかないのです…。ですから、私達は神秘なる、未知なる、はかりしれず、わからない存在です。これは永遠(とわ)にそれはわからないままでしょう…。そして、思考を超えて、また自我を超えて、分離を超えて初めてリアリティの中に参入します。そして、その時、真我に意識も帰ってゆきます…。私達人類が、これから気づいたり、見つけたり、目覚めなくてはならないのはそのことです。私などなく、存在していない、その時、自と他の分裂はどんどん消えてゆきます…。“私”がいないということは“私のもの”がない。ですから、あらゆる執着が消えてゆきます…。自分のものが存在しない時、自分のものがダメになる、ということも存在しません。自分の野心も消えてゆきます。自分がダメになった、とか、良くならないといった、悩みや苦しみも消えてゆきます…。“私が生まれた”“私が生きている”“私がいる”“私が死ぬ”といった“私”(我・エゴ)に関わるものすべてが消え去ります…。その時、病・老・死も超えてゆきます…。永遠なるものへと変わってゆきます…。人間は、はかりしれない中で、はかりしれないままの存在で、何であるかも、いつであるかも、また存在しているかどうかもわからなくなってゆきます…。それは、“分けれなくなる”ということと同じです…。その時、真のやすらぎや平和なハートが生まれます。ですから、“私”がない、という気づきは、人を美しき本来の質(本質)に戻してゆくのです…。古代の真の賢者たちは、そのことを真の悟りと伝えています。自と他の分離も、そこから消えてゆきます…。それこそ、無我であり無心であるということです。そのように、人類がそのことに目覚め、その素晴らしさに、その運のよさに、その素晴らしい至福に気づいてゆくと、世界はますます良くなってゆくことでしょう…。

そして、人類は真の平和と愛と、真の成功と、ひとつなる一体感の中、真の繁栄を取り戻し始めるでしょう。その時初めて、天が望んだ、本当に神々が望んだ、なんと呼んでもよいですが、真の自己が望んだ本当の平和な世界、美しい世界が展開することとなるでしょう…。

MARTH
2018.1.7