Q:MARTHさんにお尋ねします。自分の肉体は自分のものだから好きにしてよい。ということは違うような気がしてきています。そのことについて詳しくお話しください。

MARTH:まず、この未知で神秘なる大自然の中に、あらゆる生命、あらゆる子どもたちはその万物の一部分として生まれてきます…。古代からその万物全体は、真我、大我、神などと呼ばれてきました…。そしてその全体(真我)の一部として、その子(その真我の現れ)は、この未知なる次元に生まれてきたのです…。その未知なる次元に生まれた万物の子、奇跡の子、神の子、なんと呼んでもよいのですが、その万物の大切な一部分は、当然この世界の本当の質であるところの素粒子の海、または霊的な海そのものといってよいでしょう…。彼らはその未知なる成分で作られていて、かつそれによって動いています…。その上、それは万物の一部として、五感を持って出てきます…。動物たちも人間もみんな、そのように生まれます…。そうして、万物の一部であるところのその子たちは自分で自分を、それぞれが部分部分を管理できるように、五感という機能が与えられ、この一体なる分離のない、美しき万物自然がひとつなる世界としてうまく機能するように、作られています。愛とはすべてがひとつであることです。それはまるで人間の細胞たちが他の細胞たちと一体であるのだけれど、みながそれぞれが違った役をこなしているように、この世界で機能してほしいと願っていたのかもしれません…。

そして今万物自然が、(または真我や大我や神)様々な言葉で呼ばれているその本体が望むような世界は出来ているのでしょうか。仮にひとつである(愛)美しい世界を作りたい、この地上に現したいと、人の細胞のように真我の細胞である、生命と呼ぶものを生み出したとしたなら、この未知なる神秘なる次元に美しい健康な世界を現したと言えるのでしょうか…。もし万物が分離世界でなく、愛し愛される美しき世界を望んでいたとしたら、どうなのでしょう。万物の大切な子供たちが生まれでたら、そこに長きにわたり分離を信じた人々がいます。自我世界が作ってきた社会の思考(恐れ)を信じきった大人たち(元は愛の現れ)が住んでいるのです…。分離社会、喧嘩、戦い、争い、嫉妬、妬み、恨みつらみ、様々な過剰な分離感を盲信したものから生まれでるもの、行きすぎたエゴ社会(恐れ)だからこそ生まれでたものが待っています。そのような過剰な分離感から来る争い、闘争がある世界に愛の現れの子供たちが出てくるとき、そして大人たちはどうするのでしょう…。愛を説くでしょうか…。万物自然としては(天としては)、それを神と呼んでもよいのですが、一体の世界でそれぞれが愛から機能してほしい、ひとりの人間である、万物の細胞が、ひとりひとりみんな独自に機能して、それぞれを素晴らしく、愛の現れらしく動かしてほしいと願っていても、細胞同士に過剰な“自我”という観念が生まれ、戦争と喧嘩、分離を行い、そしてそれを習うわけです…。3歳位でしょうか、4歳位でしょうか、自我は固まってゆきます…。その分離社会は、自我化した人類の様々な価値観を継いでゆきます…。それがマスコミを通じて、また、社会を通じて、会社や家族から、民族からも戦いや競争や喧嘩を習ってしまいます…。そうなるとどうなるのでしょう。細胞たちはちゃんと機能できるのでしょうか…。この真我の細胞、宇宙の細胞たち、神の子たち、神の細胞たちは互いに助け合ったり、互いに愛しみ合ったり、互いに自分の愛の機能をしっかりはたして、この宇宙の、万物自然の役目をちゃんとはたしてゆけたのでしょうか…。それとも、自我化して、もう出来なくなってしまったのでしょうか…。このとてつもない神秘なる愛の世界の役に立ちたいのに、今やもう出来ないのです…。ある自我は自分のため、ある自我は家族や民族、戦いのため、競争のため、喧嘩のため、ある人は国家の争いのため、ある人は何かの団体の競争のため…。みんなが万物の子であるのに、万物の公務員、神の公務員、自然界のひとつなる真我の一部、その細胞が、その愛の機能を果たせなくなるのです…。そうあって欲しくないのに…。それが今、世界で起こっていることではないでしょうか…。

あらゆる体、そして生命は大自然とひとつであり、その一部です。私達は愛で出来ている万物の子です。しかしそこに、分離感による自我が形成され、その自我が万物自然に乗っかっているような状態で、どのように愛の現れの本質をもつ人々や子供たちは生きるのでしょう…。自我が乗っかると、その自我は分離・分裂を信じていて、喧嘩や戦いに入っていってしまうかもしれません…。本来なら、五感があって、機能がしっかりでき、その万物の一部である細胞としての私を活かし切るというところから社会が構築され、それぞれの愛の現れとしての役目をにない、美しく輝いて生きれるのであれば何の問題もないことでしょう。それならば美しい世界がきっと生まれたことでしょう…。しかし、残念なことですが、そのようになってはいません…。戦いや争い、あらゆる苦しみの中で、人々は神も仏もいないと言います。しかし、一方神や仏の側、万物全体、自然界全体は、一体である自分の大切な子供たち(細胞)が美しい社会を生みだしてくれることを望んでいたにも関わらず、それは、可能となっていないのです…。彼らは分離・分断・分裂を信じ、分離化して、日々戦い続けているのです…。それゆえに言葉を持たない真我は、宇宙の法則で気づかせるしかないのかもしれません…。争い化、喧嘩化、分裂化に対する強いメッセージはトラブルの苦しみや運の悪さや様々な形をとって人類に語りかけているのかもしれません。

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では、私達を分かたった、その分離の性質を持つ思考というものをよく見てみましょう…。そうすると、それらは名称付けで出来ているということがわかってきます。この一体で、神秘なる世界のものを、分離したように分けて、分かったこととし、分けて、分かる、といったかたちを持って、そこに名前をつけてきました。あらゆるものに名がつけられてゆき、万物自然の中に名がないものがなくなってきました…。愛しき未知なる神秘のものは日々ますます減り、それによって、思考が作られてゆきました…。愛しく美しい未知で神秘なる、ひとつなるところは失われました…。今人類に、永遠にわけることのできない、わからぬところは、あるのでしょうか…。知らないことすら知らない。美しき永遠に分かることが出来ないような、とてつもない神秘の楽園は、人類に名付けられ、一体性を失いました…。

私達はすべてをバラバラにとらえてきてしまったのです…。確かに言葉は便利でありますが、一体のものを分離する、という習性があることも念頭に置き、注意するべきでした…。注意しなければ、分離感が強まってしまうために、恐れも強まり、そこから生まれる争いにさいなまれてしまいます。また、一体であるところからのエネルギー補給を受けられなくなってしまうかもしれないのです…。一体であるものが、一体であるという感覚の中に暮らせないといったことは悲しきことでしょう…。分離感をともなう言葉によって、思考によって、バラバラな中に、分離した中に暮らしているように感じてしまうのは、万物の子としては大きな悲しみです…。

そうして、分離した文明や文化、社会を構成してきた人類は、戦いの真っただ中、なぜ苦しいのかすら、気づけなくなってしまっているのかもしれません。それは本来、万物自然が望んだ形ではきっとないことでしょう…。自然界の細胞として、自然界の子として、美しき神の子として、大自然が真に望んだ、この未知なる次元にあなたを出した目的とは違っているのです…。その本来美しき細胞たちは自我化して、悲しくもそれぞれ自分のため、自我の家族、自我の民族、自我の競争や比較、戦いに参戦してゆきます。その分離した社会の中で、それらの価値観の中、人々は苦しむのをやめないのです…。

ですから、人類がそのことに目覚めて、みなが万物の子、神の子、自然界の子、奇跡の子、なんと呼んでも良いのですが、その本来美しき愛の現れであった彼らが普通に体の細胞たちが体のために働けるように、自然界の細胞として(公務員として)、全人類がそのような一体感の中、無我や無心と呼んできたような、自我化されない形でみなが力を合わせて、生きれる社会が生まれる必要があるのではないでしょうか…。愛し愛され、共にからだの細胞たちのように力を合わせて生きれたらどうでしょう。どんな世界が生まれるのでしょうか…。

それこそが、ひとつなる万物自然がもっとも望んだもの、それをこれから人類が見出さなくてはならないのではないでしょうか…。それこそが最後の楽園への道ではないかと感じてなりません…。もしそれが出来なければ、人は分離感から来る争いで滅びてしまうことでしょう…。ましてや万物自然が望んだような世界は決して起きないことでしょう…。あらゆる人々が、あらゆる企業、あらゆる家族、あらゆる民族、あらゆる国家、形式的にどこに所属していようとも、それぞれの人々が、万物自然(真我)の本来の役目に尽くして生きれるなら…。真我、天、神、なんと呼びましょうか、このとてつもないこの一体である未知なる世界が望む、愛の現れらしい方向性を持って、みなが自然と動いている、みなが共に支え合って、幸せに生きている美しき社会が、生まれることでしょう…。

人々が深く分離・分断することが妄想であることが理解されている社会、戦いや闘争がウソであったこと、間違いであったことに気づく人々が沢山いる世界、私など存在しなかった、万物の一部が存在しただけだ、私と他という分離は実際、科学的真実ではない、と気づいた科学者たち、そして大人たち、そしてその子供たち、すべてがひとつであることが科学的真実で、そもそも分離した私などいなかったと知った多くの人々、自我は観念にすぎなかったと気づくことで、気づきによって自我の終焉を人々が迎える時、人は死する我などないと気づき、ゆえに死を超え、自我は生まれもせず、生きてもないゆえに老化への不安を超え、病気の苦しみを超え、とてつもないやすらぎの領域に入ってゆくことでしょう…。私などなく、真我しかない、真我の一部でしかないと知り、あらゆるものが神の一部、万物の一部でしかないと理解でき、私など存在しなかった、私は万物の一部分だった、というような気づきを持つことはとてつもなく人を浄化し、平安に戻し、美しき社会を生み、人々の運を良くし、輝かせ、素晴らしい世界を創ってゆけるのではないかと感じてなりません…。

MARTH
2018.1.9