Q:純粋に愛を持って生きていないと、神様からバチが当たるとよく言いますが、本当でしょうか。

MARTH:もし、あなたがその神様とか天であったとしたら、人類に対してどんなことをしますか?もしかして、万物は自分に似ているように人を作っているともよくいいますが、本当でしょうか。どちらにしても、私はバチというものではないと思います。バチではなくてメッセージが来ると感じます…。これは死んだ後であろうが、死ぬ直前であろうが、生きているときであろうが、どんなときにも、それはずっと作用しつづけるであろうと感じます…。あなたの小指やあなたの人差し指が、また、あなたの細胞のどれかが悪さをすれば、あなたはそれを元に戻そうとします…。あまりにも元に戻らなければ、しょうがないので自然界へと帰すことでしょう…。万物自然も、一体なるものです。万物の子である私達細胞を気づかせようとメッセージすることでしょう…。本来一体である万物自然の全ては、そのひとつであるという性質ゆえに、人間の細胞のようにつながっています…。一体であるという分離感のなさは、それを愛と言っても良いほどです…。

そして、その愛の一部分である子供たちは、それぞれが分かたれているように見えていても、そもそも一体なものであるのですから、仮に個別に自我というものをもっていても、あくまでそれは便利なための作りごと、妄想なのです…。ですから、人類に本来は自我は存在しません。あるように見えていても、すべてはひとつであるのです。小我は大我なのです…。それゆえに、それらは人間でいうと、細胞のようなものです…。細胞は個別に動いているように見え、しかし全体につながって、それ自体をなしているのです。また、心というものは言葉や思考で出来ていますから、そのどれもがそもそも分離の性質を秘めているのです…それゆえに、すべてが分かたれているように感じるのでしょう…。しかし、自我を超えている本来の人類の性質は、一体性にあるのです。ゆえに愛であり、イコール無我であり、無心であり、無我無心イコールワンネス(ひとつである)といわれているのです…。そちらの方が現実だと…。たしかに、それこそが万物のあり様であることでしょう…。

そうであったなら、あなたのいうバチですが、それゆえに人が強く無我無心ではなくなったり、自我化するとか、分離感を持つとか、または愛がなくなった時、そのような時は自分でも何か気づいたりもするでしょうが、メッセージがやってきます。分離した判断を下したり、戦い始めればきっと即座にメッセージは来るでしょう…。なぜなら、万物は、それを神と呼んでも良いですが、その真我は言葉を持たないからです。そして分離も持っていないのです。みずからが万物であるゆえにすべてとつながっていて、それは即座に伝わります…。

そして自分の細胞が何か問題を起こしたり、そこからずれたなら、必ず叱るでしょう。目覚めるようにするのは親(本体)の努めです。バチというよりも、花咲かじいさんはあんなに豊かに幸せになったのに、欲ぶか爺さんはひどい目にあいます…。それは、昔の人々が子孫たち子供たちに、そのことを伝えたかったからではないのでしょうか。神々は、または天は、万物は言葉を持たないから、人間に喋りかけることができません。ですから、目覚めさせるために様々な方法をもちいるのではないでしょうか。また、自然にそういったものが備わっているのかもしれません…。自我化し、愛がなく、敵対したり、やっつけたり、襲ったり奪ったり、人のふるさとに侵入したりすれば、それなりの目にあう、自分(我)がみずからの真我を攻撃しているのですから、目を覚ませとなるのもうなずけます…。自我により恐れが多く、正しさより恐れの野心で生きるなら、自我から見ていいものに見えるものに引き寄せられてしまいます。そのゆえ、自我の野心で問題の中にみずから入っていってたりすることでしょう…。そして、また戦い、滅びることになることがあるのも当然でしょう…。

モーゼもそのことを言ったのではないでしょうか。それが本当の十戒の意味だったのではないかと想えてなりません…。本当に持続可能な繁栄をしたかったら、本当に真の豊かさを持つ真の成功を得たかったら、万物に合った生き方、自然界に合った生き方、神々の望むような生き方をしなさいといったのでしょう…。だからといって、お坊さんがなさっているような難しい生き方ではありません。たとえば私は、あらゆることを幸せに好き勝手にやっていますが、それでも極力分離化はしないように心がけています…。人をおとしいれる、やっつける、戦う、自己(我)拡大につながることも極力しないようにします。また、他と見える人々のことも、なるべく深きところで許そうとします。そう生きなければ必ずメッセージがきて、台無しになり、滅びてしまうだろうと感じるからです。

自分の家の教育もそのようなものでした。例えば自分がけなされ、やっつけられ、馬鹿にされ、お金を盗まれたり、そのような様々なひどい目にあうことは、父母にとってはある意味良いこと、まったく構わないことであり、しかし、お前がする側になっては決してならない。そのような悪になれば必ず魂を失う、愛を失う、無我を失う、良き運をすべて失うと伝えられ、育てられました…。私の家の教育はそのようなものでした。ですから、母親や父親に、そのことでひっぱたかれたりもしました。ですから、よく、ひっぱたかれるのは暴力だ、反対だ、という人がいますが、禅がそうであるように、私はなぜかどこかそれが嬉しかったです。両親が正義なのが感じられたからです。この人達は正しいことでしか怒らない、自分のエゴで怒ったりしない。無我のことをいっている。ですから、深いところで尊敬していました。どんなことでもやり方でなく、その深き問題はその在り方の中にあるのではないのかと今も感じます。それゆえに、現在も自分の中にいつもやすらぎがあるのも、両親の教育の賜物だと感じてなりません…。そしてそれが、古代のユダヤのリーダーたちが望んでいたことと同じだということも、最近知りました…。

ですから、現代の様々な賢者が負ける練習、恥かく練習、やっつけられる練習、差別される練習、そして自分をより無我へ、より愛へ、というように教える人々が現れるように、私の家では、そのような教育がずっとなされました…。ちなみに私の先祖は、両親とも寺です。また、神社でもありました…。父方は、淡路島の神代というところです。ですから、寺だからそのような考えではないのか、と思われるかもしれませんが、そうであるなら、いとこが全員そうであるはずですが、そうとは確実に断言することができません。なんとなく、そうではない雰囲気も子供のときから感じていました…。自分だけが、すごくそのような教育を受けている、そんな感じがしました。それは父の仕事柄もあったかもしれません…。よく、いとこから、「悪いことをしてくるやつを、なぜ戦ったり、やっつけたりしないのか?」と聞かれたこともあります。でも、やっつけられたり、盗まれたり、ひどい目にあったりするのは悪いことじゃない、そのことを許せるなら、自分は大きな心になれる。そして、やる方になったら、ひとつなる万物から見て悪となり、きっととんでもない目にあうし、とんでもなく魂を失い、愛も失い、無我も失い、良き運も失う、この世界の素晴らしいもの全部失う、と私は答えました。未だに、そう感じています…。

それは今想うと、あなたがおっしゃるバチのことかもしれません…。しかし、皆さんにそう思えと言っているのではありません。みな価値観が違います。それで良いとも思います。ただ、質問を受けたから、答えているわけです。バチが当たるのか、あなたはそう聞いています。あなたはどう思われますか。私はバチではなくメッセージはかならず来ると想います。すべてはつながっているのですから…。逆に、自分が自己拡大をやめ、無我無心、また分離社会から内側が出て、愛とか、ひとつであるとか、そのような想い、また、負ける練習や恥かく練習、馬鹿にされる練習、分離社会の競争や争いから出て、人を決して馬鹿にしたり、やっつけたりせず、いじめたり、悪いことをする人のことすらも許して生きるなら、天は喜ぶように感じます…。私の父親は東京地検で、その前は法務省で、囚人の回帰の研究をしていた人です。彼らのことも大切にしていました。死刑囚の方からもお手紙が来るほどです。「先生、あなたに会えてよかった…」と…。それほど大切にしたのでしょう。ですから、スリにあったり、やっつけられたり、詐欺にあったり、そのときでも、「よかった、あげられて、良かったじゃない。」と祖母は自分の母に伝えていました…。では、この人達はいい人なのか、僕はいい人なのか…?いいえ、そうは思いません。そうではないのです。ただ自らがけがれたくなく、魂を失いたくなく、愛を失いたくないからなのです。ただ宇宙の法則をしていただけではないのでしょうか…。正義も失いたくないし、何があっても万物の子であるプライドは捨てたくない、きっとそれだけは握りしめて離したくなかったからなのです。その方が真に得だと知っているし、感じているからです…。決して自我の恐れで、腐ったものに巻き込まれたくないのです。恐れで間違った人や環境や社会に合わせ、そのせいにしてみずからが悪くなりたくないのです…。

よく言われます…。MARTHさんは悪い人たちに脅されたり、強い人、社会の権力、そういったものにいつも屈しない、またはその人達に支配されないと言われます。それは、万物の子として自分の中の正義や愛が大切だからです…。何かをもらえる、何かを奪われる、その恐れで戦い、媚び、それに引きかえ大切な万物自然の愛を失いたくないからです。命よりも大切なもの、それは愛であったり、自分の本質であったり、勇気だったり、純粋さであったり、天、神、万物、なんと呼んでも良いですが、彼らの子として、また万物の公務員として生きるその愛こそ、すべての幸せや楽しさ、豊かさと繁栄と真の運のよさを握っていると感じるし、その素晴らしきものを失いたくないのです。

皆さんはどうでしょう。人は必ず死にますが、死んでゆく時に天に、神に、万物になんと言うのでしょう…。そんなことを想ったりしませんか…。自分は怖かったから悪い人に従ったんだ。社会が悪かったから、親が悪かったから、人のせいでこうなったんだ。あなたの子ではなくなったのだ。自分は怖かったんだからしょうがないんだ、自分は悪くないのだ、といった言い訳を言うのでしょうか。何があろうが、まっすぐ生きるのはみずからの責任であり、決断です。ゆえに天はきっとみずからの子たちを許さないでしょう。「さっき、ゆるすって言ったじゃないか、なんで許さないんだ、天は。」私の父も母も、自らの一部分は許さないです。私が悪いことをしたら、父は逮捕したでしょう。自分の子供は許さないのです。他のものは大切にします。しかし、みずからの子は許しません。それが、多分古代ユダヤからの、ずっと続いている教えであり、流れなのでしょう。私はそれを清々しく、正義だと感じて育ちました。皆さんは、神の子供です。万物の子供です。人が許しても、天は許さないでしょう。なぜなら、あなたはその大切な子供だからです。あなたは万物の真我の大切な愛だからです。あなたを叱り、メッセージするでしょう。そして、あなたはそんな自分も許さないでしょう。なぜなら、あなたは神だからです。あなたが愛だから、きっとあなたはメッセージをどんどん起こすでしょう。引き寄せてくるでしょう。あなたの質問に対して、私の答えはそのようなことです。ですから、環境や恐れに関係なく、いつでも純粋にピュアにまっすぐに生きることが何よりも大切で、それが真の繁栄であり、この未知なる神秘なる神々の世界で、いや、愛の世界で、本質の世界で、ワンネスのひとつなる世界で幸せに生きる真の法則であり、仕組みであると感じます…。それこそが何よりも人生に一番欠かせないことでもあるのだろうし、それが、万物の子である人類に絶対的に必要なものなのだと感じます。私はいまもそう想えてなりません…。

MARTH
2018.1.14